結論
会社の歴史=ゲームの歴史のレジェンド企業。しかし、現在の環境で今後もレジェンドであり続けられるかは疑問。ぬるま湯を抜いて体質強化を図るべきではないかと。
目次
前置き
分析したガンホーが今の市場環境では有望かつ割安な気がしました。ただ、ガンホーだけが体質として良いのか、それともコンテンツ業界、ゲーム業界は大体凄いのか、その辺りが分からないので、似た印象の会社をピックアップして、何社か寄り道しておこうと思いました。今回はゲーム業界レジェンドの一角、任天堂を見てみようと思います。
事業概要
まずは任天堂の事業についてです。
任天堂の事業は娯楽製品の開発、製造、販売です。
歴史があってブランド力のある企業にありがちですが、事業の説明が少ないので、補足資料として同社の沿革を見ながらゲームの歴史を勉強していきます。
参考:会社情報:会社の沿革
任天堂は元々はトランプや花札といったレトロゲームに端を発した玩具会社でした。
1962年に大阪証券取引所に上場を果たしていますが、まだその頃には今のようなゲーム機やソフトなんてものは無かったようです。
比較的現代的なエレクトロニクス技術を用いた玩具が登場したのは1970年の光線銃シリーズ。
太陽電池をセンサーの代わりに組み込んだ標的を銃口から発する光をあてて撃つというシンプルな玩具であったが、そのハイテクなイメージとバネ仕掛けで吹き飛ぶビール瓶や鳴き声を挙げるライオンの壁掛けなど様々なリアクションをするバリエーション豊かな標的が人気を集め、その年の玩具の売り上げトップを記録するほどの大ヒット商品となった。
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任天堂は1973年に子会社の任天堂レジャーシステムを設立し、ブームが去ったボウリング場の跡地を利用して、光線銃の技術を用いた大型レジャー施設『レーザークレー』を展開した。翌年には西部劇を題材とした『ワイルドガンマン』等の業務用射撃ゲームも作られた。各地にレーザークレー射撃場を置いたが、第一次オイルショックの影響ですぐに客足は遠のき、レーザークレーシステムに社運をかけていた任天堂は多額の負債を背負うこととなった。
まさに固定資産を抱え込むレジャー施設運営の難しさを物語るエピソードです。。
この苦境から4年後の1977年に任天堂で初のテレビゲームを発売します。それが家庭用テレビゲーム機「テレビゲーム15」、「テレビゲーム6」。
元は電卓メーカー「システック」と三菱電機が共同開発していたものであり、システックが倒産したのを受け、三菱電機が任天堂に企画を持ち込み、さらに改良を加えて発売までに至った。内容は主に『ポン』に代表されるテニスまたは卓球ゲームの類である。ケーブルで本体に接続されたコントローラーが二個あり、それぞれのプレーヤーはコントローラーを手に持って操作することもできた
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この当時、テレビゲームのソフトウェアは本体に内蔵された電子回路で構成された物で、現在のゲーム機のようにCPUにプログラムを与えて画像を表示したりする物ではないために、ソフトウェアを交換する事はできず、スイッチの切り替えでゲームの内容を電子回路の切り替えによって変更していた。これを家庭用のテレビ受像機に接続して遊ぶ。
私はスーパーファミコン世代なので、これで遊んだ事はないのですが、ちょっと聞いた感じだとAppleⅡにマシンの雰囲気が似てますね。丁度AppleⅡが発売されたのも1977年でした。
AppleⅡが爆発的に売れたのはキラーアプリケーションとなった表計算ソフト「VisiCalc」が確定申告に有用だったためと言われますが、ゲームで使用する事を目的に購入している人も多かったそうな。
今でこそ任天堂とAppleは全然違うイメージですが、最初やっていた事はかなり近いのではないか、という気がします。起点は似た場所に立っていましたが、その考え方や方向性が違っていたため、大分違う印象の会社になったのではないか、と考えるとその会社の方針や考え方は非常に重要だとしみじみ感じます。
ちなみにこの「カラーテレビゲーム15」のWikiに興味深いエピソードがありました。
任天堂は家庭用テレビゲーム業界では、むしろ後発の部類に入るメーカーで、当時は自社内にもテレビゲームの開発ができるスタッフも揃っていなかったという。
本製品に先んじる事2年のエポック社がテレビテニスで主流を作っていた市場にあっては同製品が2万円前後という値段のため、後発メーカーとしては価格で勝負するしかなく、ゲーム機としての機能を削りに削ってとにかく安く作り上げ、それでも完全な赤字で製造・販売された「6」と、やや他社製品より安いが採算の取れる「15」で攻勢をかける事となった。
これは知らなかったです。
ゲームと言えば任天堂こそが大御所で、エポック社は「バーコードバトラー」で少し名前を知っている程度だったのですが、1977年当時は任天堂の方が後発だったようです。
あの任天堂ですらゲーム事業のスタートは後発であったというのは、起業を志す人間にとってはアツいエピソードではないでしょうか。
少なくとも日頃から「こんなアイディアはどうだろう」とか言っても、「いや、~社が似た事をやってる」とか「そんなアイディア誰でも思いつくよね」とか叩かれる事が多い自分は、勇気づけられるエピソードです。
起業で大事なのは、あるかも分からない真っ青なブルーオーシャンを探す事じゃなくて、多少血に染まった海でも、自分なりの信念をもって顧客が欲しいと思うものを生み出そうとする心意気ではないかと思うわけです。
しかし、任天堂はこの「テレビゲーム」では「レーザークレー射撃場」で負った借金を完済するには至りませんでした。
一気に状況が変わるのが1980年の「ゲーム&ウォッチ」です。
ゲーム&ウオッチ(ゲームアンドウオッチ、GAME&WATCH)は、任天堂発売の携帯型液晶ゲーム機 (電子ゲーム、LSIゲーム)。
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任天堂開発による初の携帯型ゲーム機である。ゲームソフトは本体内のROMに書き込まれた「1ハード1ソフト」であり、その後のゲーム機のようにカートリッジ(ロムカセット)交換で様々なソフトを実行することはできない。タイトルの多くは、難易度が低めのGAME Aと高めのGAME Bの内どちらで遊ぶかを選択できる(一部例外あり)。この選択方法はファミリーコンピュータの初期タイトルにも使用されている。ゲームをしない間は時計として使え、これが商品名「ゲーム&ウオッチ」の由来である。後に、アラーム機能も付くようになった。
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手元で遊べる手軽さが受けて社会現象にもなり、日本での売り上げ総数は1287万個、日本国外では3053万個で、合計4340万個。当時の任天堂が抱えていた70億円近くもの莫大な借金を完済し、それでも40億円ほどの黒字がでるほどの大ヒットを記録、高収益を得る優良企業へと転身を果たしただけでなく、その黒字をファミリーコンピュータの開発に投資したことでも知られる。
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横井軍平が、新幹線の中で暇潰しに電卓のボタンを押して遊んでいる人を見て、「暇つぶしのできる小さなゲーム機」として発案。その後、横井がたまたま社長車の代理運転手を引き受けたとき、運転中に雑談ながら構想を社長に話したところ、向かった会合先で、液晶生産用の新工場を立ち上げたものの電卓の需要が頭打ちとなり、新たな応用先を探していたシャープ社長の佐伯旭に伝わり、「電卓サイズのゲーム機」を作る事に意気投合して一気に具現化した。
物凄い大逆転です。
ここから一気に勢いに乗る任天堂は続いて1983年に「ファミリーコンピュータ」略してファミコンを発売します。
ファミリーコンピュータ(Family Computer)は、任天堂より1983年7月15日に発売された家庭用ゲーム機。
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開発は当時業務用ゲーム事業の縮小によって手の空いていた開発第二部(上村雅之らアーケードゲームの開発陣)が行った。開発開始の直前にコレコ社がコレコビジョンの試作品を任天堂に持ち込んでおり、その性能に開発第二部の技術者たちは驚くとともに、今後開発すべき製品のイメージとしてコレコビジョンを据えた。
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当初はアーケードゲームが家庭でできることをセールスポイントにしており、製品パッケージにも「家庭用カセット式ビデオゲーム」と銘打たれていた。
本体と同時発売したローンチタイトルは『ドンキーコング』、『ドンキーコングJR.』、『ポパイ』の3本であるが、ほどなくして『五目ならべ 連珠』と『麻雀』が発売され、その名の通り「家族みんなで楽しめる」ラインアップが揃った。その直後に発売された『マリオブラザーズ』の後は2か月以上新作が途絶えていたものの、既出のアクションゲーム4本は全てアーケード版で実績のある移植作であり、雑誌評価でも好評価を得ていた
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販売状況は発売当初こそPPUのバグの発覚による出荷停止があり振るわなかったものの、徐々に人気化し1年間で300万台以上を販売した。1985年には『スーパーマリオブラザーズ』を発売。この作品は大ヒットとなり本体の販売にも大きく貢献し、家庭用ゲーム機の市場を大幅に拡大させていった。
さらに任天堂は、ゲーム&ウォッチ発売から9年後の1989年、2代目の携帯型ゲーム機「ゲームボーイ」を発売します。
開発当初はファミリーコンピュータ(ファミコン)よりもはるかに高画質なメガドライブやPCエンジンなどが発売されており、スーパーファミコンの開発が進んでいた状況にあったため、社内でも「今さらモノクロで売れるのか」とあまり期待しない声があったが、ローンチタイトルに続き6月に発売された『テトリス』の売上本数は最終的に423万本を数えるヒットとなった。
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エポック社から発売されたゲームポケコンに次ぐROM交換方式の携帯型ゲーム機である。シチズンから液晶テレビ用のモノクロディスプレイの売り込みがあり、開発がスタートした。本機はシャープと共同で開発し、シャープは40億円を投じゲームボーイの液晶開発用の工場を設立。液晶は同社のものを使用している。
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1989年に全世界で発売され、同時発売ソフトは『スーパーマリオランド』『アレイウエイ』『ベースボール』『役満』の4本だった。
これもまたエポック社の方が1985年に「ゲームポケコン」というのを出しているのですね。。常に任天堂の先を行きつつ何故か今は印象の薄いエポック社。。エポック社と任天堂の比較をすると、売れる売れないは本当に紙一重の違いのような気がします。
研究対象として興味深いポイントかもしれません。
ゲームボーイ発売の1年後の1990年、「スーパーファミコン」を発売します。
スーパーファミコン(SUPER Famicom)は、任天堂より日本では1990年11月21日に発売されたファミリーコンピュータの後継機である家庭用ゲーム機。
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日本での出荷台数約1,717万台、日本以外では約3,193万台、全世界累計出荷台数約4,910万台。対応ソフトは1990年から2000年の間に1,388タイトル(非ライセンス品を含まず)発売された。
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開発当初は、当時最大の市場シェアを持っていたファミリーコンピュータとの互換性を維持する為の開発努力も試みられた。
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最終的には互換性の維持を断念し、新規プラットフォームとして発売された。しかしライトユーザーや大手ソフトメーカーの取り込みには成功し、すでに発売されていたPCエンジン、メガドライブを超える規模のシェアを獲得。結果的に、第四世代、16ビットゲーム機の時代でも、任天堂はメインプレーヤーの座を堅持した。なお、最大市場の北米とフランス・ヨーロッパ・オーストラリア等の欧州市場では先行していたGENESIS(北米版メガドライブ)、メガドライブとほぼ互角の状態で市場を分け合うかたちに留まっている。
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(ソフトの)開発環境としては当初はソニーの32ビットワークステーション・NEWS(ニューズ)が用意されたが、当時のワークステーションは非常に高価であり結局は体力のある大手のソフトメーカー以外の参入を困難なものにした。
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後期にはゲームの大容量化への対応、さらに競合他社への対抗策としてソニーと共同で専用CD-ROMシステム「プレイステーション」(後に発売されるソニーのゲーム機のプレイステーションとは名前は同じだが別物)の開発が進められていた。しかし、ソニーが米国のゲームショーでスーパーファミコンと互換性を持つCD-ROM機を発表して新聞でも報道された翌日、今度は任天堂が記者会見でフィリップス社とCD-ROM機の共同開発を発表したため、ソニーに冷や水を浴びせるかたちとなった。ソニーにとって任天堂はスーパーファミコン用の部品を卸していた顧客でもあったため、法的な手段には訴えず交渉を続けた結果、販売元がソニーから任天堂に移行するなど契約の変更がなされたが、その後両者は決裂した。
ソニーとのCD-ROM機開発の決裂は、後でシェア争いをすることになるライバル「PlayStation」を生み出すことになります。現在でもソニーの「PlayStation」は任天堂の手ごわいライバルです。
さらに6年後の1996年に「NINTENDO64」を発売します。
NINTENDO64(ニンテンドウろくじゅうよん)は、任天堂が開発して1996年に発売した家庭用ゲーム機。スーパーファミコンの後継・次世代機種であり、略称は「64(ロクヨン)」、「N64」。3次元空間を自由に体感できるゲーム機として売り出され、スーパーマリオ64のような自由な操作性を売りにするゲームが多数登場した。開発当時最高のCGワークステーションメーカーだったシリコングラフィックスの技術提供を受けており、発売から暫くの間、家庭用ゲーム機としては群を抜く性能を誇った。
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1990年代中期に「次世代機」と呼ばれたゲームハードの一つで、任天堂としては初めて本格的な3Dゲームに対応した。
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PlayStationやセガサターンのようなCD-ROM媒体を用いた多くのゲームが動画を多用し映画風に進化を遂げていく中で、NINTENDO64は全年齢に親しまれるようなゲームらしいラインナップが多かった。
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最終的に日本国内では554万台、国外で2,738万台、計3,292万台が出荷された。
正直、「NINTENDO64」は非常に批判の多かった印象の機体です。
当初は次世代ゲーム機戦争の本命として期待されており、「ゲームが変わる。64が変える。」のキャッチコピーとともに登場した。しかし、度重なる延期による発売の遅延(ライバル機より2年近くも遅れた)により、登場時には全出荷国でPlayStationが、日本国内ではさらにセガサターンも市場を占拠し始めていたことが大きかった(NINTENDO64が発売された1996年6月時点で、PlayStationの累計出荷台数は270万台を超えていた。1997年3月末時点でNINTENDO64の累計販売台数は204万台、1998年3月末時点は315万台。対するPlayStationは1997年月末時点で累計出荷台数650万台、1998年3月末時点で1,151万台だった)。開発環境の問題や64DD構想が難航したのに加えサードパーティー離れによる慢性的な参入メーカー不足に陥り、普及が進まず、最終的なハード出荷台数は同世代のPlayStationはもとより、国内ではセガサターンにさえ及ばなかった。この結果、任天堂は据え置きゲーム機のトップシェアを失い、その後2世代にわたりその座をソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)に明け渡すことになった。
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NINTENDO64は発売初期からすでに参入メーカー不足によりソフト不足に見舞われ、特にハード発売より約3ヶ月は、サードパーティはおろかハードメーカーである任天堂からも新作ゲームが1本も発売されないという深刻な状況に陥る。任天堂は1996年内にセカンドパーティ製のものも含め、16本の自社ソフトを発売する計画だったが、ソフト開発の遅延や64DDの発売延期などにより4本しか発売できず、後に発売にこぎつけたものすら半分ほどで、残りのものは発売中止となった。また発売当初のキラーソフトの一つ『ゼルダの伝説 時のオカリナ』の発売が大きく延期したことも大きな痛手となった。
参入メーカー不足で致命的だったのはファミコン、スーパーファミコン時代に抱えていた国民的な人気を誇るRPGシリーズが離れたことであり、ファイナルファンタジーシリーズは大容量メディアであることを理由に、ドラゴンクエストシリーズは普及台数の差と64DDの開発遅延をきっかけにいずれもPlayStationに移籍。RPG不足は後々まで尾を引いた。
幼い頃の私はまさに上記のようなイメージで、64は失敗したハードという印象でした。
ただ、一方で北米市場ではそれほど影響が無かったそうです。
日本市場では上記の原因により苦戦を強いられたが、北米市場においては上記の事態がほとんど起きず、『スーパーマリオ64』や『ゴールデンアイ 007』がNPD調べで500万本以上売り上げるなど有力ソフトがハードを牽引し、累計販売台数2,063万台とSNES(海外版スーパーファミコン)並の市場を築くことに成功した。当時の北米では任天堂と同様に、プログラマが独自でプログラムを組むことが多く、プログラム問題があまり起こらなかった。また、RPG・格闘ゲーム不足については、日本と異なりさほど人気がなかったことにより問題とならなかった。
宮本茂は「NINTENDO64はね、とりあえず日本ではすごくトーンが下がっているし、ヨーロッパもけっこう厳しいですし、不安な状態に見えるんですけれども、アメリカの勢いのお蔭で、ビジネスとしては完全に成り立った」と述べている。
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発売されたソフトは日本では全208タイトルに過ぎないが、人気を博したソフトや、作品として極めて高く評価されているソフトも存在している。また4人同時プレイに最初から対応していたという事もあり、多人数ゲームで大きな広がりを見せた。そのため、小中学生を中心に一定のシェアを獲得することに成功した。
特に『マリオカート64』、『ゼルダの伝説 時のオカリナ』、『ニンテンドウオールスター!大乱闘スマッシュブラザーズ』などは、それぞれかなりの人気を獲得し、売上も好調だった。本ハードで初めて登場したマリオパーティシリーズは、現在も続編が発売される人気タイトルとなっている。また、売り上げこそ劣るものの『実況パワフルプロ野球』や『実況ワールドサッカー』なども3Dスティックでの操作性が独特で、シリーズ屈指の作品として現在も根強く支持されている。
日本に住んでいる私たちの肌感覚だけでは当てになりません。任天堂のビジネスはきちんと数値を追わないと本質を見落としてしまうグローバルビジネスのようです。
NINTENDO64の発売から5年後、携帯用ゲームの後継機である「ゲームボーイアドバンス」と第6世代据え置き型ゲーム「ニンテンドー ゲームキューブ」が発売されます。
ゲームボーイアドバンス(GAMEBOY ADVANCE)は、任天堂が開発した携帯型ゲーム機。
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任天堂の携帯型2Dゲーム機としては最後の製品となった。
2001年までの半導体技術では3Dゲーム機を携帯型にすることが難しく、代わりに究極の携帯型2Dゲーム機として開発された。本機はゲームボーイシリーズとしては最後の製品であり、新機軸を盛り込みつつも、10年以上にわたるゲームボーイ開発で得た技術が総結集されている。
ニンテンドーゲームキューブ(NINTENDO GAMECUBE)は、任天堂が開発して2001年に発売した家庭用ゲーム機。
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ゲームソフトのグラフィック向上に伴うソフトウェアの大容量化に対応するため、任天堂のゲーム機としては初めて、標準ソフトウェア供給媒体として光ディスクを採用した。
使用している光ディスクは、任天堂と松下電器産業(現・パナソニック)が共同開発した、DVDをもとにした独自のメディアで、ディスクの直径は8センチメートル、また、CAV方式とすることで高速なデータ読み込みを実現している。データ読み込みの速さ以外にも、普及している一般的な規格と異なるものにすることで、違法コピーを作りにくくするという海賊版対策もあった。データ容量は約1.5GB。松下電器産業の著作権保護技術(→コピーガード)が使われている。当初はMDと同じプラスチック製のカートリッジで覆う予定だったが、DVDとの互換性が取れなくなると松下電器に反対されたため、現在の形になった。
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前機種NINTENDO64の反省を踏まえ、瞬間最大性能の高さよりも、安定的に高性能を発揮し、ゲームを作りやすいハードウェアとすることを念頭に開発された。岩田聡(当時、任天堂取締役経営企画室室長)によると「開発で最初に重要視したのが「数字主義、スペック主義からの決別」」である。いくらスペックが素晴らしくても、実際にソフトを開発してみると使えないスペックが多く、スペックが嘘になってしまうことを踏まえ、「ピーク性能を重要視するのでなく、現実的にゲームづくりで使える実効性能を重要視」している。ゲームキューブのスペックは、NINTENDO 64と比較してCPU速度を10倍、グラフィック処理速度を100倍を念頭に開発されたが、ピーク性能上はそれを満たしていない。しかし、岩田によると「実効性能としてはまさに依頼したCPU10倍、グラフィック100倍が達成できた」としている
私はゲームボーイアドバンスと既存のゲームボーイの違いが良く分からず、アドバンスは買わなかったです。ゲームキューブの方も、私はその頃既にプレイステーションに乗り換えてしまっていたので、正直あまり印象が無いです。
その頃のイメージ的にはソニーのプレイステーションが名前的にもオシャレで、任天堂はソフトが自由じゃなくて古い、という印象でした。
そしてそれから3年後の2004年に携帯型ゲーム機「ニンテンドーDS」を発売。
ニンテンドーDS(ニンテンドーディーエス、Nintendo DS、略称:DS)は、任天堂が開発して2004年に発売した携帯型ゲーム機。
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画面を2つ持つことや、タッチスクリーン・マイクによる音声認識などの操作方法(ユーザインタフェース)、すれちがい通信といった通信機能を持っており、それらを利用した「Touch! Generations」という一連のシリーズを発売した。
2004年までのテレビゲーム(コンシューマーゲーム)業界では、特に映像表現に関わるハードウェア技術の発達に伴って全体的にゲームが画一的、マンネリ化状態に陥っており、ゲーム人口も減少傾向(ゲーム離れ)にあったため、それを打開することが課題になっていた。また、マスコミなどで非行、引きこもり、ゲーム脳などゲーマーやテレビゲームのネガティブ・キャンペーンも行われていた。
ニンテンドーDSは斬新な方法で新たな層の獲得にも成功した。任天堂が進めた「ゲーム人口の拡大」によって、教育や教材への活用や、Wiiの誕生にも影響を与えた。
2010年3月に日本国内の累計販売台数が3,000万台を突破し、2014年現在、全世界での累計販売台数は1億5,000万台以上に及ぶ。
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日本で発売されたゲームタイトル数は1,800を超え、これは日本の携帯ゲーム機の最多タイトル数である。
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ゲームハードの多大な普及数に対して任天堂以外のソフトメーカー(サードパーティー)製タイトルの売上は芳しくない場合が多かったとされる。これは、ニンテンドーDSを所持するユーザーの大部分がカジュアルユーザーやミドルユーザー以下、もしくは『Touch! Generations』の影響でハードを購入した従来の非ゲームユーザーであり、コアユーザーなどの熟練者・マニア層向けのタイトルが主となっていた従来どおりのゲームタイトルでは、ユーザーのニーズに合わなかったためとされる。ニンテンドーDSとその後継機の市場で成功を収めたレベルファイブの日野晃博代表は、そのことを分析してニーズに合うようなタイトル開発を行った為にうまくいったことを語っている。
ニンテンドーDSで注目すべきは、ゲーム=子供というターゲットから枠を広げ、脳トレなど大人も遊べるゲームも取り入れている点かと。従来のゲームボーイとかはさすがに二十歳超えてやっていると周囲の目なども気になりますし、コアなファンがやるような凝った設定の世界観のゲームとかはかなりキツイ。今の私がそうですが、もう脳がついていきません。
脳トレとか英語とか教育の分野を取り入れる事で、そんな大人達もとっつきやすく、すぐ遊べるようなシンプルな端末を作ったのが大きな成功理由ではないかと思います。私もDSは大人になってからの暇つぶしに買いました。
ターゲティングは自身の事業領域を絞り込む事で、特定のユーザーに刺さる製品を作るのが一般的ですから、ユーザー候補を広げた製品を作るのは失敗しそうな印象です。このニンテンドーDSは見事に新たなユーザーを獲得した稀有な事例ではないかと思います。
Wii(ウィー)は、任天堂が開発して2006年に発売した家庭用ゲーム機。
第7世代(任天堂の第6世代目)の家庭用据え置き型ゲーム機である。
本体は任天堂の据置機としては初めてスロット方式の光ディスクドライブの搭載により、後述の通りDVDケース二個分の大きさのサイズとなり、縦横両方の設置が可能となった。ゲームキューブとの後方互換性を持つ。発売当時、デジタル対応テレビの普及が過渡期だったことからHDMI出力端子は搭載されず、アナログ映像出力端子が搭載された。
また、無線通信で接続されるコントローラ「Wiiリモコン」による直感的な操作の実現、人間型のキャラクター(アバター)であるMiiの搭載、独自のインターネットを利用した日常生活に役立つコンテンツ(Wiiチャンネル)といったサービス、バーチャルコンソールなどのゲームソフトのダウンロード機能等を搭載している。
日本のゲーム市場は1997年をピークに、2006年までは漸減しており、任天堂はゲーム市場が漸減している理由を、「ゲームの複雑化に伴うゲーム離れ」にあると考えた。これは「家庭用ゲームが、ハードウェア、ソフトウェアともに大きな進化を遂げると同時に、システムや操作の高度化・複雑化が進み、あまりゲームをプレイしない層とゲームをよくプレイする層の間でゲームに対する心理的な距離に格差が生じ、ゲームに対するスタートラインが、人によってまったく違う状況になってきているのではないか」というものである。
そこで同社は
①ゲーム人口の拡大(ゲームから離れてしまった人を呼び戻す。女性や高齢者といった非ゲーマー層を取り込む)。
②ゲーム定義の拡大(従来は存在しなかった作品を投入する。例:『Wii Sports』、『Wii Fit』)。
③年齢や技量を問わず、誰もが同じスタートラインに立てること(コアゲーマーとカジュアルゲーマーがともに楽しめる)。
を提案した。2006年(平成18年)E3前の会見で社長の岩田聡(当時)は「ゲーム人口の拡大」が社長に就任したときに定めた目標であると語った。この提案を元に、任天堂は「ゲーム操作の高度化」に歯止めをかけるため、ユーザインタフェースの改良によって「このゲームの操作なら、自分でもできそうだ」と普段ゲームをしないユーザーに体感させることを具体的目標とした。
このコンセプトを同じくしてWiiに先駆けて発売されたニンテンドーDSでは、操作の簡便化と従来とはまったく異なる操作感覚を実現した(Touch! Generations)が成功して大ヒットした。WiiではニンテンドーDSとは別の技術、別のアプローチで操作の簡便化を図るべく、コントローラの改良が行われ、宮本茂を中心とする3年にも及ぶ研究開発の結果、生まれたのが「Wiiリモコン」である。宮本茂はCEDEC 2018で当時を振り返り、Wii本体について「DVDケース二個分の大きさで作れと(岩田聡から)無茶ぶりされて、猛烈に苦心した末にできあがったもの」と語っている。
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DSと同じく、それまでに無かったコンセプトで作られ、ターゲットを広げてなお上手くいった稀有な事例だと思います。
お客が多い事は当然売上のチャンスが増えるわけですから、ターゲットは多いに越したことはないです。ただターゲットを広げすぎるとエッジの無い魅力の薄い製品となってしまい、人の心に刺さる事は少なくなります。
それでもこれだけ売れたというのは、それだけ多くの人が「大人も遊べるゲーム」を求めていたという事であり、まさに任天堂の戦略が的を射ていた事の証明ではないかと思います。
DSの発売から4年後、Wiiの発売から2年後の2008年に「ニンテンドーDSi」が発売されます。
ニンテンドーDSi(ニンテンドーディーエスアイ、略称: DSi)は、2008年(平成20年)11月1日に任天堂から発売された携帯型ゲーム機。
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当時社長であった岩田聡は、「DSを一家に1台あるものから、1人1台所有するものに変えていく」という目標を掲げ、その目標の達成に近づくためにニンテンドーDSiを開発したと発表した。キャッチフレーズは『自分仕様の「マイDS」へ。次世代機ではなく、あくまでニンテンドーDSのマイナーチェンジモデルという位置付けになっているが、機能・仕様共に従来のニンテンドーDSと比べて大きく変更されたものとなっている。
機能的には変わっているのかもしれませんが、個人的にはニンテンドーDSから変わり映えしない印象です。発売時期もリーマンショックと被ってしまっていて正直全く印象に残ってないです。当時の私もそれどころではなかった気がします。
さらにその3年後の2011年に携帯型ゲーム機「ニンテンドー3DS」を発売してます。
またも間が悪い事に東日本大震災があった年の2月発売です。
ニンテンドー3DS(ニンテンドースリーディーエス、Nintendo 3DS、略称:3DS)は、任天堂が開発して2011年に発売した携帯型ゲーム機。コンセプトは「持ち歩く、響きあう、毎日が新しい」。CMなどでは「メガネがいらない3DのDS」というキャッチコピーも用いられている。
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2011年2月26日、日本国内で発売開始。エンターブレインの調査によると、発売後2日間で推定37.1万台を販売した。2011年3月までの販売台数(海外は出荷ベース)は、世界で361万台、日本国内で106万台。発売前の目標(世界で400万台、日本国内で150万台を出荷)には未達となった。日本国外での出荷は255万台と予定の250万台を若干上回っているにもかかわらず、最大の市場である北米では、発売から5月末までの二ヶ月で69万台程度 と、販売台数、消化率ともに振るわなかった。原因としては、世界市場全体からは本体が歴代携帯ハードより高額だったこと、携帯機より据置が強いこと、次世代機の乗換えが遅いこと、任天堂から発売の大作の不在などが挙げられているが、日本では、発売直後に発生した東日本大震災による広告・消費の自粛風潮やソフトの一部発売延期がなされたことがマイナス要因になったとも推測されている
ニンテンドー3DSの1年後、Wiiの6年後の2012年に「Wii U」が発売されます。
Wii U(ウィー・ユー)は、任天堂が開発して2012年に発売した家庭用ゲーム機である。コンセプトは「集まればWii U。ひとりでも、みんなでもWii U」。
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液晶ディスプレイを搭載したコントローラ「Wii U GamePad」を同梱しており、テレビ、GamePadとの2画面で、あるいはGamePad画面のみでプレイできる。5.1chサラウンドに対応しており、任天堂のゲーム機としては初めてHD、1080pの映像出力に対応している。Wiiとの後方互換があり、Wiiリモコン、Wiiリモコンプラスなどの周辺機器にも対応している。
「Wii U」の名称は前世代機であるWiiが「We(私たち)」に由来するのに対し、Wii Uでは「You(あなた)」のゲーム機となる想いで名付けられた。
Wii Uの発売前は、据え置き型ハード・携帯型ハードであったWiiとDSが大成功を収めていた。しかし、2010年代に入ると世界中でテレビ放送がデジタル化し、フルHDテレビの普及が進んだことで、アナログ映像出力のみの対応だったWiiは、2010年代に入ると販売台数が急に失速。逆に、競合のXbox360とPS3はHDMI出力に対応していたため、販売台数が落ち込むことはなかった。
Wii Uの開発にあたっては、HDMI出力端子搭載やゲームのフルHD化が急務であったが、既にWiiのほぼ全てのソフトがデジタル化に対応していたため、Wii UはWiiとの後方互換を搭載した上で、テレビ以外でもゲームが楽しめるように、新規にWii U GamePadが開発された。
これによって、Wii Uはテレビを使わない遊びも可能となり、従来の据置型のゲーム機と位置づけが変り、区別するためにリリースでは「新しい据置型ゲーム機」ではなく「新しいゲーム機」と表記しており、それに伴い「据置」という言葉を使わずに「ホームコンソール型ハード」という表現を使用している。
Wiiの後継機だったことからWii Uにも高い期待がされていたが、「発売直後に、プレイできるソフトが少なかったこと」、「前世代のハードよりも、インパクト・真新しさが薄れていたこと」などから、幸先の悪い船出となった。それに加えて、Wii Uの目玉だったWii U GamePadはWiiリモコンと比べて価格が高く、本体とのセット価格は歴代ハードと比べても高くなり普及の足かせになった。
2015年に大ヒットとなるソフトが発売され、少しは売上が伸びたものの、Wii U本体の発売から実に2年半以上が経過しており、遅きに失した感は否めなかった(Wii U本体を持っていない人が多かった為に、ソフトに関する評判もあまり広まらなかった)。
「ニンテンドーDSi」の発売から6年後、「Wii U」の発売から2年後の2014年に「Newニンテンドー3DS」 が発売されます。
Newニンテンドー3DS(ニューニンテンドースリーディーエス、New Nintendo 3DS、略称: New 3DS)は、任天堂が開発し、2014年(平成26年)10月11日に発売された携帯型ゲーム機。
Newニンテンドー3DSと大画面のNewニンテンドー3DS LLは2014年(平成26年)8月29日の『NINTENDO 3DS Direct 2014.8.29』で発表され、ニンテンドー3DSの上位互換機として同年10月11日に発売された。特徴として、NFCとCスティックとZLボタン、ZRボタンが追加され、周辺機器の拡張スライドパッドの役割を果たすようになった(従来の拡張スライドパッドの使用は出来ない)。また旧型ニンテンドー3DS・ニンテンドー3DS LLよりも、性能が向上した。だが、次世代機ではなく、あくまでニンテンドー3DSのマイナーチェンジモデルという位置付けになっている。
「Newニンテンドー3DS」から2年後の2016年、スマートデバイス向けアプリ『Miitomo』配信。
『Miitomo』(ミートモ)は、任天堂配信のiOS・Android用アプリ。2016年2月17日に事前登録を開始、同年3月17日より配信開始。2018年5月9日にサービス終了。
任天堂のスマートフォン向けアプリ第1弾で、アバターである「Mii」を使用したコミュニケーションアプリ。配信初期は8言語・16か国で配信。自分のMiiを作成する際に出される質問への答えが他のユーザー「フレンド」に伝えられるほか、Miiの服を着せ変えたり、Miiの写真を撮影してSNSで共有することができる。本作のプレイは基本無料で、ソフト内ではMiiの服を購入する際に必要な「Miitomoコイン」がもらえるが、この「Miitomoコイン」は課金により得ることもできる。また、任天堂の会員サービス「マイニンテンドー」と関連付けした状態で本作をプレイすると、あらかじめ設定されたミッションを達成した際にマイニンテンドーで景品と交換する際に使用するポイント「プラチナポイント(Miitomo)」が獲得できる。
本作発表当時の任天堂社長・君島達己は本作について「(自分の情報が相手に自動的に伝わるという)『ネタふりコミュニケーション』でゲームを遊ぶ仲間の輪が広がることを大切に考えている」と話している。
2018年1月25日に配信された任天堂のニュースリリースにて終了が告知され同年5月9日16:00(日本時間)をもってサービスが終了した。
それまで自前端末ばかりだった任天堂が、初めて出したスマートフォン向けアプリです。スマホアプリの会社が相当成長している所への参入は今更感があります。任天堂はそれまでハードとソフトの提供の両方をやって、特にハードで強い影響力を誇っていたため、スマホアプリへの参入が任天堂らしいかと言われると微妙な気がします。
ただ、これまでの歴史からしても、任天堂は新たな技術に挑戦し、失敗し、ノウハウを蓄積して後から結実させる、という事を繰り返してきているので、アプリ開発はまだ続く可能性もありますが、これは性質としてそれまでのビジネスと異なります。
ゲーム業界での任天堂のポジションはMacを売っていたAppleに似ていると思います。ハードを売りつつ顧客は魅力的なソフトで惹きつける。ソフトが良ければハードも売れるというのが任天堂の勝ちパターンで、Appleの勝ちパターンでもあります。
任天堂のスマホアプリ進出は、Appleが突然MacのOSを他PCに提供始めたような違和感があります。
色々な可能性を模索するのは企業の成長にとって重要な事ですが、一方で「その会社らしさ」というものが失われるのは事業領域を失う事にも繋がります。
これはかなり難しい問題ではあります。
これまで何度も挑戦を乗り越えてきたように、これは「新しい任天堂」を生み出す過程なのか、それとも任天堂は自分の凄い部分を失って衰退していくのか、任天堂の将来を考えるなら、これを見極める必要があります。
「Wii U」の発売から5年後の2017年に、持ち運べる家庭用テレビゲーム機「Nintendo Switch」を発売しています。
Nintendo Switch(ニンテンドースイッチ)は、任天堂が開発・販売を担当し、2017年3月3日に発売された据置型ゲーム機。
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Switchは任天堂とNVIDIAが共同開発するかたちとなった。NVIDIAはSoCだけではなく新しいゲーム機に必要な要素(アルゴリズム、コンピュータアーキテクチャ、システムデザイン、システムソフトウェア、API、ゲームエンジン、周辺装置など)の開発もしている。NVIDIAは「カスタマイズされたTegraプロセッサー」と明言しており、「GeForceゲーミング・グラフィックカードと同じアーキテクチャーのNVIDIA GPUが含まれている」としているが、それ以上の詳細はWii以降の任天堂のゲーム機の情報開示の傾向にならうかたちで公にはしていない。
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一見Nintendo Switchドックが本体のように見えるが、本体はテーブル・携帯モードで使用するディスプレイの付いたタブレット端末のほうであり、これについてはWii UのWii U GamePadの遺伝子を上手く引き継いでいる。また、Wii U GamePadと比べてベゼルが狭くなり、ボタン類が本体上部に配置されたことで、非常にシンプルでスッキリしたデザインとなっている。
Wii Uの段階で既にその萌芽が見えていましたが、携帯用ハードと据置型ハードの垣根が取り払われてます。画面と端末を切り分ける事ができるのはMicrosoftのSurfaceに似てます。任天堂ハードの始まりはパソコンと近い所にあるので、それが更新されていくと発想が自然とAppleやMicrosoftに似てきてしまうのかもしれません。
ざっくり任天堂歴史を辿った感想
ちょっと予備知識のために任天堂の歴史を調べようと思っただけなのですが、えらく時間がかかってしまいました。任天堂の歴史を学ぶ事はゲーム業界の歴史を学ぶのと同義なのかもしれません。。
任天堂の歴史(ハードの歴史)をwikiで調べていく中で、任天堂という企業について私が気になったポイントは3点でした。
事業内容の冒頭説明では製造が任天堂になっていたので、自前工場を持ってハードを全部作っているのかな、と思ったのですが、各ハードの開発開始の発端を見るとどの開発もバックには大手メーカーがあり、新しいハードの度に提携先が変わっている印象です。
テレビゲーム15⇒三菱電機
ゲーム&ウォッチ⇒シャープ
ファミリーコンピュータ⇒コレコビジョン(結局シャープ?)
こういう事ができるのって、自身は工場を持たず、企画をメーカーに持ち込むファブレス会社が多いです。考えてみれば任天堂のように爆発的に売れても3年後、4年後には中古が出回り新品が売れなくなるようなビジネスだと、自前の工場を持つのはかなり厳しいと思います。設備の耐用年数を1年~2年くらいにしないと償却が追いつかず減損しなければならなくなる気がします。
そう考えると、任天堂でやる製造というのは例えばパーツは全て外注で、集まってきたパーツを人間が組み立てるだけ、という「なんちゃって工場」なのかな、と。
ファブレスは経理的にも非常に有利で、現代の高収益企業のほとんどはファブレスだと思います。
任天堂は初期の頃に「レーザークレー射撃場」で痛い目を見ているので、固定資産に対して警戒する社風が培われているかもしれません。
いずれにせよ固定費が最小限で済むファブレス経営であれば、財務的なリスクはかなり低くなるためかなりのプラスファクターです。
これは後の有価証券報告書の分析で答え合わせしていければと思います。
②頻繁にハードが入れ替わる
私は自分ではゲーム好きの積りでしたが、持っていた任天堂ハードはスーファミ、ゲームボーイ、ニンテンドーDSだけでした。友達の家で64とかはやりましたが、その他のハードはかなりスルーしてます。
携帯型、据置型を問わず平均すると3-4年以内くらいで新しいハードが開発されており、入れ替わりが激しいな~という気がします。これはつまりハードを発売した直後とそれ以外で売上、利益の上下が相当激しいのではないかと。
任天堂はマリオやドンキーなど、パワーのあるコンテンツを持っていると思うので、ソフトやグッズ販売も売り上げとしては小さくないかもしれませんが、ハードの売上増減による業績の変動は確実にあると思います。
まして、ハードは成功すれば大きいですが、失敗する可能性も高く、失敗すれば開発期間数年分の経費が回収できなくなります。
安定性を欠き、未来が中々予測しにくい事業であると言えます。これは体質的にマイナスのファクターではないかと。
③任天堂の事業は強力なライバルが多い
任天堂の初期の頃のハードの仕様を見て私はAppleⅡを想起しましたが、考えてみるとゲームができるハードという意味では現在のスマートフォン、PCも大きなライバルです。つまり、PlaystationのソニーやXboxのMicrosoftのように具体的なゲーム用ハードを作っている会社だけでなく、Appleやサムスンといったすべてのハイテク端末企業達が競合であると言えます。
事実、2004年のニンテンドーDS以降、任天堂はゲーム人口の減少を理由に、ターゲットの範囲を広げていますが、個人的にはこれはゲーム人口が減ったというよりスマートフォンやPCといった汎用端末経由の娯楽に費やす時間が増え、ゲーム専用端末の需要を段々と奪われているのではないかと推測します。
小規模な売上の小さな会社であれば、大手の取れないニッチ市場を狙ったゲリラ戦で著しい成長も見込めるかもですが、任天堂ほどの規模の会社ともなると、ターゲットの幅が広いため、会社としての成長を目指すと競合との争いは避けられません。
今後、自社ゲームに特化した独自端末で、汎用性のある端末と競合するのは、よほどコンテンツにパワーが無ければ、分の悪い勝負になる気がします。
任天堂のブランド力は確かに凄いですが、今後5年、10年先を考えていくと、この環境で成長を続けていけるかどうかは慎重に検討した方が良いかと思います。
セグメントの状況
任天堂は事業セグメントを単一としているため、セグメント詳細はありません。
ただ、製品及びサービスごとの情報、地域ごとの情報などがあるため、一応見ておきます。
製品及びサービスごとの情報を見ると、ニンテンドー3DSとSwitchでの売上が出てます。現在の主力は圧倒的にSwitchで93.2%を占めてます。最新機種とはいえ、2017年に発売の端末絡みの売上が未だに一兆円超えとは、さすがは天下の任天堂、という感じです。2020年3月期は多少コロナ下での特需などもあるでしょうが、メインは4月-6月期です。特需を差し引いたとしても圧巻の数字ではないかと思います。
3DSの発売は2014年で既に5年以上経っているため、関連売上は180.6憶円(1.4%)まで落ち込んでいます。やはりブームが去ると新規購入する人が減り、大きく落ち込むのは致し方ないのかな、と思います。
地域ごとの情報を見ると、日本の割合が23.0%と海外比率が77.0%という相当のグローバルカンパニーです。これだけ海外比率が高いと為替リスクへの影響も大きそうです。
一応事業上のリスクを見てみると1番に為替レートの変動がありました。
どれだけ外貨建仕入を増やした所で、獲得する外貨は利益分上乗せされるため、円高に振れれば損失は不可避かと。 海外売上が8割近いのであれば為替の変動が与える影響は大きく、リスクの筆頭に載っているのもうなずけます。
地域別有形固定資産はやはり本家である日本に集中している印象です。本社ビル等が大きいのだとは思います。設備の状況を見に行ってみると。
やはりダントツで大きいのが本社で、他は工場と販売施設です。
工場こそあってもほとんど建物と土地の値段で、機械装置等はほとんどありません。事前予想した通り工場では人の手による製造パーツの組み立てくらいしかしていないのではないかと思います。維持すべき巨大な設備、有形固定資産等が無いため、実質的な意味でファブレス体制と考えて良いのではないかと思います。
この分だと米国の固定資産も欧米の統括会社の本社ビルなどではないかと思います。
ちなみに製造原価計算書をちらっと横目で見るとほぼ材料費(96.7%)でした。
これはもう、部材を買ってきて組み上げているだけではないかと。
業績推移
経常利益率の推移は5.7%⇒10.3%⇒18.9%⇒23.1%⇒27.5%
2018年3月期以降から売上が倍以上に跳ね上がっています。これは明らかにSwitchのお陰だと思います。ハードが一度ヒットすると倍以上の売上になるのですね。。
しかし逆に言えば、それ以外の時期は低い利益率に甘んじなければならないので、ヒットした時に稼げるだけ稼ぐ必要があります。
その点で直近の経常利益率は利益率として単年では優秀ではありますが、瞬間最大風速の利益率が27.5%というのは、少々物足りない感があります。
参考までに、その前4年ほどを追加で見てみると、
▲9.4%⇒1.6%⇒1.1%⇒12.8%⇒5.7%
ほぼファブレスのコンテンツ企業という有利な体質から考えると、如何に巨大企業だからといってもちょっと苦しい気がします。
この間にも「Wii U」「Newニンテンドー3DS」「Miitomo」など新たなハード、コンテンツを投入した上でこの状態なので、直近の業績は久々に「Switch」がツボにハマっただけのラッキーパンチではないかと思ってしまいます。
経営方針
柔軟な経営判断を行えるように目標とする指標を定めない、というのは、何もしなくても安定して高い水準の業績をあげられる会社が言うのであれば納得せざるを得ませんが、任天堂のように業績が変動する会社なら猶の事、質的な指標を定めるべきだと思います。
例えば任天堂の経営方針は、「人々を笑顔にする娯楽をつくる会社」となっています。
どうすればその方針の達成されたか分かるのでしょうか。
ユーザーの一人一人に「笑顔ですか」と聞いて回るのでしょうか。
違うと思います。
ユーザーが高いお金を買ってでも欲しくなる魅力的な製品・サービスを大量に売る事だけがその証明になり得ます。本当に笑顔になれるような熱狂的な娯楽に人はお金を出すものです。
逆に利益率が低く、使ったお金(経費)以上の金を回収する事のできない娯楽はユーザーにとって「その程度の」娯楽です。営利企業である以上、その理念や方針の達成度は「業績指標」で換算できます。達成できるできないはさておき、方針に沿った指標を提供できない経営者は、社員に対して適切な方針を示せていないのと同義だと思います。
これは経営の質としてマイナス評価だと私は思います。
キャッシュフロー
営業活動によるキャッシュフローは2018年3月期以降、Switch影響で大量に流入していますが、投資キャッシュフローが結構動いてます。ただ、事業概要の所で触れましたが、任天堂はほぼファブレスで投資のほとんどない会社ですから、有形固定資産ではありません。直近2年の投資活動のキャッシュフローが以下。
有価証券の売買が非常に多いです。
百万円単位ですから、直近年度は4,187.2億円の有価証券を売り、6,175.5億円の有価証券を買っている事になります。
どんなものを買っているかというと・・・
ほぼほぼ債券の買い替えではないかと。
株式に比べれば変動リスクも低いですから、これを入れ替えしたところで大きなリスクはありません。この有価証券分はほとんど現金同等物と考えてしまっても良いと思います。
B/S(貸借対照表)
資産の確認です。
手元資金は8,904.0億円(46.0%)で十分な額なのですが、さらに有価証券と投資有価証券もリスクの低い債券が多いため、これも手元資金として見なすと、1兆4,544.9億円(75.2%)が手元資金となります。
確かに任天堂の業績は変動が多いため、手元に金を残しておきたいという心情は理解できます。ただ、これだけの金を手元に残しておくことは、結局のところ経営陣や社員に危機意識を失わせます。
具体的に言えば、「トントンくらいの利益をあげていれば会社はずっと安泰で、良い給料も貰え、方針に沿った楽しい娯楽を考える仕事」という、うらやまけしからん職場になりかねません。
これも会社の体質的にも望ましくありません。
金というのはよく水に例えられますが、余計な水をため続けると水は淀み、人の心や職場環境を悪化させます。マネジメントはそれを律するために常に必要な量のギリギリを見極め、回転させ続ける事が必要だと私は思います。
資産リストは極めて健全で、銀行屋さんなら喜んで金を貸してくれそうな内容ではありますが、質的な部分を考えると投資家からすればあまり手放しで喜べる内容ではないです。
負債、純資産を見てみます。
当然ながら無借金です。
この資産規模で自己資本比率が80%前後というのはさすがコンテンツ企業です。
ただ、それだけに自己資本が大きすぎ、Switchがあれだけヒットしても17.5%と、そこらのそこそこ優良な企業のアベレージとそんなに変わりません。
財務安全性は非常に高いですが、こと投資利回りという観点で見れば、平均すると並以下でしかないかと思います。
従業員の状況、役員報酬
任天堂の給料はかなり良いです。
少数の会社ならともかく、これだけの従業員人数がいて平均給与がこれって相当のものだと思います。
役員の方も当然ながら億越えがゴロゴロしてます。
正直、これまで見てきた体質に対してもらい過ぎだと思います。
私は報酬は規模ではなくROEや付加価値率といった体質によって評価されるべきだと思います。企業の規模は過去の結果でしかありませんが、そうした質的指標は間違いなく今いる経営者や従業員の努力に依存するためです。
任天堂が高利益率の優良体質で株主に対しても還元している会社ならばいくら貰おうと構いません。ただ、同社の現在の指標は平均すればせいぜい「並」です。
過去から留保した資金があれば、トントンの業績でも現状の給与水準だって当分食いっぱぐれないでしょうが、投資家からすれば「え?」という感じです。投資家は経営者と従業員を養うためにお金を出しているのではないですし、内部留保は経営者と従業員の貯金箱ではありません。
成果が出せないなら報酬を減らすか、報酬に見合うだけの成果を出すかしなければ、任天堂に投資している投資家に対して不誠実ではないかと思います。
もっとも、成果を示そうにも目指すべき財務指標すら定まっていないので、先ずはそこからなのですが、逆に言えばそういった目標を明確に定めないために現状が放置されているとも考えられます。
株主への還元
配当の算出方法についてしっかり記載しているのはフェアで良いと思います。連結営業利益の33%、連結配当性向50%を基準にしてどちらが高い方、というのも配当性向として割と高い方だと思います。
ただ、任天堂ほどの現金を抱え込んでいる企業はまだ足りないと思います。
経営者や従業員からすれば貯めれば貯めるだけ安心でしょうが、投資家からすれば、おろせない通帳の数値が増えていくだけです。留保すればするだけ未来の利益が増える、というならまだ分かりますが、任天堂はほとんどが債券で手元に残しているに過ぎないので、投資家は強制的に利益が増える見込みのない再投資をさせられている構図です。
こういった「貯め過ぎ企業」に関しては、具体的に自己資本をどの程度まで抑える、という基準を論理的に求め、それ以外を自社株買いなり配当なりで、きちんと還元する方針を定める事が、投資家に対して誠実な対応ではないかと私は思います。
まとめ
ゲーム業界のレジェンド、任天堂を分析してみましたが、さすがと言おうか、同社の歴史を軽く調べるだけでゲーム業界の歴史まで調べる羽目になりました。到底網羅できるレベルではありませんが、とりあえず勉強になりました(合掌)。
任天堂は過去から様々な名作ゲームを生み出し、果敢に新たな可能性に挑戦してきて、熱狂的なファンを生み出してた、Appleみたいな企業だと私は思います(実際色々似通った部分があるように感じますし)。それは尊敬されて然るべき功績です。ただ、それによって生み出された留保は過去の先人たちが受け取った対価であり、投資家が「お預け」を食らっている利益です。断じて後輩たちをぬるま湯に浸すためにあるわけではない筈です。
事業としてゲーム業界の変動が大きく、変化も早く、経営が難しいのは分かるので、一般企業より手元資金を手厚くしたいという心情は理解できますが、それならそれで一体どれだけあるのが適切なのかを具体的に示すなど、誠意ある経営者ならまだ打てる手がいくらでもあると思います。
任天堂はどんな理想を目指していて、何を基準にその達成度を測り、経営者と従業員はどれくらいの達成水準でどれだけの報酬を得るべきなのか。そのあたりの筋を通さずに今の好待遇をそのまま放置しておくのは、ぬるま湯と言わざるを得ないのではないか、と思います。
私もどっちかというと労働者側の人間なので、給料の多い会社は賞賛したいのはやまやまなんですが、とはいえ上場企業であればリスクを取っている投資家にもフェアであるべきだと思います。そういった批判が嫌なら、結局MBO、LBO等で非公開会社となり、自分達の財布でやるしかないのではないかと思います。
経営者や従業員が自分たちの財布でやる分には、給料を沢山あげようが、利益が少なかろうが、赤字が出ようが、誰も文句を言う筋合いはないので、皮肉でもなんでもなく、それも一つの選択肢ではないかな、と思います。配当還元やリストラクチャリングなどで、一時的にでも自己資本を減らせば、MBO、LBOは可能だと思いますので。。
本記事は有価証券報告書を元にした筆者の私的見解であり、特定の意思決定を推奨するものではありません。また、内容に対して適切と思われる指摘があれば、迅速に加筆修正致します。
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