仕事での己の無能さに心が死んでるので、分析はお休みして息抜き記事です。
記事の結論はタイトル通りで
「ワインや芸術を愛でるように企業に向き合いたい」というテーマです。
以前から、投資で有名な人のTweetを眺めていると、高値で売り抜けたとか、上手く損切りしたとか、いくら儲かったという話が多いんですけど、そういうの見ているとなんか釈然としなかったんです。
最初は単なる妬みかな、と自分の感情をスルーしていたんですが、ふと、企業をワインとか美術品とかに例えると分かりやすいんじゃないかと思い、書きます。
ワインはお酒で飲み物なわけですから、香りや味を楽しむものです。
美術品は観賞用なわけですから、その美しさを愛でるものです。
いずれも傑出したものになるとマーケットで希少価値が出てくるので、当然値段は高くなりますし、安値で買う事ができれば儲かる事もあると思います。
ただ、例えばワインや美術品マーケットが大盛り上がりしている時にワインや美術品を安値で仕入れ、高値で売る事ができた人が沢山居たとして、果たして彼らは本当の意味でワインや美術品を理解していると言えるだろうか。彼らはワインの味を理解する舌や、美術品を見定める審美眼を持ち合わせているのだろうか、と。
盛り上がっているマーケットにおいては、本質的価値がどうとかはあまり関係なくなります。注目が集まれば上がり、注目が失せれば下がる。そこにあるのは熱狂だけで、論理的に説明できる理屈はありません。
チューリップバブルが頂点に達した時、病気持ちの球根を大量保有している人が果たしてチューリップについて何か知っていたのか。大いに疑問です。
これは株式(企業)においても同じ事が言えます。
企業は社員のポテンシャルを最大限に引き出し、掲げた理念に適うサービスないし製品を提供して利益を稼ぐ営利組織です。人類の、人類による、人類のための仕組み。人類の発展と幸福に寄与する最前線、それが企業です。
私はこれは一つの人間知の集大成であり、創業者の情熱と経営者の論理が組み合わさった一個の芸術だと思います。実際、創業者の崇高な意思、マネジメントの誠実さ、断固たる決意、合理的な意思決定に触れた時の感動は、絵画や音楽といった芸術に触れた時の感動と(少なくとも私は)遜色ありません。
私は投資家の立場とは本来、企業という名の芸術を愛でる熱心な愛好家であると思ってます。しかし、「高値で売り抜けた」とか「上手く損切りした」とかいう言葉には対象を売買の対象としか見ない、転売屋的な匂いがしてなりません。投資家の本来の品位が見失われているように感じるのです。
ロマネ・コンティの当たり年ワインを転売して「億った」からといって、果たしてその人はロマネ・コンティの味が分かるのか。そんな筈ないです。本当の意味でワインを愛する人からすれば、転売して稼いだ金が理解の証と称されるのは業腹です。
ワインの真価はその神秘性、味や香り、美しさであり、それを深く理解するにはワインの作られた風土や歴史、科学的な知識、醸造主の苦心などに対する勉強が必要になる筈です。断じて高く転売したから理解している、という事にはなりません。
企業であればその真価は企業収益であり、それを深く理解するには金の流れを知り、経営者の特性や考え方を知り、創業者の理想の向かう先に対する理解が必要になる筈です。結果的にいくら儲かるかとかは分かりません。買った値段にもよるでしょうし、ビジネスというものは、そもそもリスクを取ってリターンを得るものなのですから、絶対儲かるなんてのは原理的にあり得ません。
しかし、どれだけ勉強し、信頼できる出資先という資産運用パートナーをどこまで理解できるかで、少なくともその人の人生の豊かさは大きく変わると思います。優秀で誠実なパートナーを持つという事は、友人や仲間を沢山持つのと同じような感覚が得られる事だと思うのです。
フリーランスのエクセル屋さんというブログは、一介の経理マンという立場から有価証券報告書を分析しているブログです。結局それは、読者の方が本当の意味での「投資家」を目指し、真摯に投資に向き合おうとした時、大きな関門となる「会計」や「経営」的見地を僅かながらサポートするブログなのかな、と。
今更ながらブログの意義について考え直した、という話です。
結論を繰り返すと、ワインや芸術を愛でるように企業に向き合いたいです。
つまり、安値で買って高値で売る事が主眼ではなく、企業という芸術そのものの好みじゃない部分には苦言を呈し、好みの部分には賞賛を送る。そうした分析を続ける事で、自己の知見を深め、投資の質を高める、そんなブログでありたいな、と今は考えてます。
(まあ、勿論儲かるに越したことはないんですけど、ネ)
最近仕事で色々ヘマが明るみになって、ナーバスになってますが、とりあえずはひと段落したので分析も頑張っていきます。